(第1回作品) 身(み)も時も蕩(とろ)けだす
桐岡(きりおか)は、また街を歩いていた。夕方が近いな、と思った。
この日、いつも以上に何人もの男たちと絡(から)み合ったようにも、誰の肌身にも有り付くことなく、ずっと一人で歩いていたとも思えた。とは言え、そう思うことはこの日に限らず、よくあることだった。
どうであれ、見放すことなくこの身に寄り添っていけばいい、そうすれば、いつか、えっ、こんな男が同じ街にいて、俺を受け入れようとしているという場面を前にすることができる・・・。今までのように過ごせばいい、自分を見離しさえしなければ、そこへ行き付く。
あっ、以前、入ったことがある家ではないか、と桐岡の足が止まりかけた。周辺にも見覚えがある気がした。入ったのは何十年も前とも、まだ十年は経っていないとも、確かではなかった。足を止め、じっくり見廻した。
屋根が濃い青、ドアは焦げ茶色の、二階建ての家だった。庭には丈(たけ)の高い植物が多かった。ただ、年齢や顔形など中にどんな男がいたのか、その男と何を行ったか、思い浮かばなかった。やったことは他(ほか)の男たちの場合と大して違いはないさ、思い浮かべられなくても仕方がないよ、という声の行く先を追うようにして、桐岡は二階の窓に眼をやった。
いつの間(ま)にベランダに出たのか、手すりに両手を付いて立っている男と眼が合った。ただ、相手の顔が分かっても、記憶がくっきり浮かび出ることはなかった。
「そんなに、俺と、やりたいのか・・・昔一度、やったことがある、などと、言いたそうな、眼をしているな・・・作り話が、好きなのか・・・」
男が言葉を、投げやりというのとは異なるものの、途切れがちに落とした。
男は桐岡の眼には五十前後に見えた。歳月だけは止めどもなく過ぎ去っていく、今こうしている間(あいだ)にも、という当たり前の感懐(かんかい)が、男の言葉と束(たば)になって桐岡に降りかかった。
「何十年か前、一度、中でやったことがあるような気がして・・・ありもしない、でたらめな記憶かもしれない・・・」と桐岡は言葉を上に投げた。
「そんな作り話をしてまで、俺の尻(しり)の穴に舌を潜(もぐ)り込ませたいのか。八十を越えていそうな、白髪(しらが)頭になっても・・・」
男の言葉は沈んだ口調になった分、滑らかになっていた。
「少し経ってから、一階の玄関のドアを開けろ。俺が下半身だけ裸で尻を突き出している。両手で穴を開いて、その場で奥の奥までじっくり舐めろ。よし、と俺が言ったら、すぐに立ち去れ」
男の声には、桐岡に聞かせるというより、独(ひと)り言めいた感があった。それにもかかわらず、よく響いた。
やや長めかなと感じられる間(ま)を置いてから、桐岡は玄関に向かい、ドアを開いた。板敷きの上で、さっきの言葉どおり、男が四つ這いの向こう向きの恰好(かっこう)で、裸の尻を突き出していた。背中は落とし気味だった。全体に四角ぽく肉の張った、一発で桐岡を蕩(とろ)かすかなり大振りの尻だった。桐岡の予測とほぼ重なる形だった。何年、何十年か前、一度むしゃぶりついたことのある尻だという確信が、桐岡を包んだ。ただ、それ以外のどんな記憶もぼやけたままだった。
桐岡は男の真後ろで中腰になると、さっきベランダで男が言ったとおり、肉が厚めに締まった両の尻たぶを両手でじわじわ開き、その中心にぴたりと吸い付いたまま、舌を奥の更に奥へと潜り込ませた。
「昔、これと同じ吸い付き方をした男がいた気もする。爺(じい)さん、さっき言ったことは、丸きり作り話というわけではないかもしれないな・・・」
男は桐岡の舌の動きをなぞるように、一語一語ゆっくり言葉を出した。桐岡の舌と唇の動きが輪をかけて濃(こま)やかになった。八十歳を越えて舐め続け、百歳を越えて一段と舐め続ける・・・。この世に他のことがあるわけもなかった。初めから分かり切った当たり前のことだった。
「よし」 男の声が流れ、尻が離れた。
桐岡は玄関のドアを開け、外に出た。一枚のドアが男の尻と桐岡の口を容赦なく遮断しながら、むしろ一段と濃く接着させたとも一時(いっとき)思えた。桐岡はさっきと同じと思える道を再び歩いて行った。今の男の家とその周辺のたたずまいを殊更(ことさら)に確かめようとはしなかった気がする。確かめられないのは、いつものことだった。
歩き続けさえすれば、別の男のもっといい尻にだって有り付くことができる・・・。そう思えるから、まだ、いくらでも、百歳を越えても歩き続けることができる。(了)
(付記)
2018年の5月から2025年の5月まで、思いつくままに7年近く書き続けた、未完の小説作品(400字詰めの原稿用紙に換算すると、300枚ほどになる)の中から、当ブログに何編かを連載することにしました。もともとは一つの作品として書き継いだものですが、今回は、その中から何箇所(かしょ)かを選び、それぞれ独立した短編小説作品(掌編(しょうへん))と言った方がいいくらいの短さですが)として載せることにしました。
全体の題は、『果ての、始まりへ』ですが、今回作品の題は、『身(み)も時も蕩(とろ)けだす』です。
いつごろまでに全体を書き終えるか、今の時点では見通せませんが・・・。
お読みいただき、感想などお寄せいただけたら幸いです。
(荻崎)
(2025.6.11)
この記事へのコメント