(第3回作品) 木の中の声
桐岡(きりおか)は立ち止まった場所から引き返した。道の端(はし)に丈(たけ)の低い木々が続いていた。結局いつも一人で歩いている。歩いていればいいのだと考えた。歩いていれば、どこかにたどり着く。どこにたどり着かなくても、自分を見離さなくてもいい、自分をどこかに運び続ければいいんだ。いつもと変わらない思いが浮かんだ。
どんより曇っていたが、雨は落ちていなかった。人通りはさほど多くはなかった。桐岡同様多くは一人で歩いていた。疲れたら道端のベンチに座ればいい、そう思いながら、立ち止まることなく歩いた。
左手に生える、周辺と同様さほど高くはない木の元に立っている男がいた。五十代ほどか。どちらかというと小柄に見えた。男は右手を木の幹に置いていたが、取り立てて何を見ているというふうではなかった。桐岡が好ましく感じる顔形だった。
「この木が気に入っているようですね・・・」男にやや距離を置いた位置で、桐岡は声にした。男は桐岡に眼を向けたものの、無言のまま姿勢を変えなかった。表情も変わらなかった。
一時(いっとき)間(ま)を置いてから、「行くぞ」と男は小声で口にし、顔を軽く振り、道の前方に向けた。
「この道はよく通るんですか」と桐岡はやや前を行く男に言った。男から声は返らなかったが、薄茶色のズボンを通して男の尻の筋肉がこりこりっと動くのが、桐岡の眼に入った。
「見知らぬ奴(やつ)に声をかけることに慣れているんだな」男は歩幅を落とし、不意に言葉を口にした。桐岡は男の尻の辺りに投げていた視線を戻し、「時々です・・・さっきは、うるせえな、と荒く言われるかと思った・・・」と返した。男はそれ以上言葉を投げるでもなく、桐岡を誘ったことなど覚えていないふうに歩を運んでいた。
「そんなに俺の尻の穴に吸い付きたいのか・・・」辺りの木の葉が一枚舞い落ちるように、男は小声で淡々と口にした。
「ぶっ続けで、三十分・・・」男に追いついてから桐岡は言った。「図に乗るんじゃねぇ」と男はやはり静かな声で返した。
「舐めたがる人が多そうですね・・・」と桐岡が言った。「楽な姿勢でじっくり舐めさせることに慣れている気がする・・・俺のような八十歳を越えた爺(じい)さんより、若い奴に舐めさせた方が気持ちがいい、と言われそうだな・・・」
言葉は返されることなく、薄く色づいた木の葉が一枚、二枚と舞い落ちた。
男の視線が斜め右の方に向けられた。前方に、右に入る道があった。桐岡にはその道に薄っすら覚えがあるようにも思えたものの、他(ほか)の道の記憶だったかもしれない。男はやや狭くなったその道に入った。木々が増えたようだった。
「高齢の奴(やつ)にじっくり奥まで長い時間舐めさせると、気が休まり、疲れも取れる・・・」不意の男の声は、風が一(ひと)吹き耳元を流れるようだった。
「最高は何時間舐めさせたのかな・・・」と桐岡が聞くと、「放っておくと、何時間でも舐めていそうだな、おまえは・・・。尺八と尻(けつ)の穴、交互にゆっくり使うぞ」と男は一段と淡々と返した。
男は左に曲がった。木々の間にいくつかの建物が見えた。太めの木々が枝葉を広く伸ばしていた。男は次の角をまた左に曲がった。一本の木の幹と枝葉に男の姿が一時(いっとき)隠れた。それきり男の姿は見えなくなった。周囲に男が入ったかもしれない建物は見当たらなかった。何度か眼を凝(こ)らしたが、辺りに人の姿はなかった。しばらくこの場に佇(たたず)んでいれば、あの男がふっと現れるようにも思えた。「何、ぼうっとしているんだ・・・」と男の声が耳に入った気もした。見回したが、誰もいなかった。風の音だったかもしれない。立ち続ければ、「こっちだよ」と男の声が続きそうだった。
右手の奥まった場所に建っている家の二階から、「ここだ」と男が手を振る姿が浮かんだ。誰も立ってはいなかった。風の音ではないと先手を打つ中で、「待たしたな・・・」という男の声がやや大きめに聞こえた気もした。期待を抑えつつ見回したが、当然のように誰も見当たらなかった。
あの男とは似ても似つかない顔形と体形の男が、さっきあの男と桐岡が歩いてきた道の方へ行くのが見えた。
よくあることさ、と踏ん切りをつけなければならなかった。どのくらい前になるのか、木の下に立っていたあの男に初めて声をかけた時から、こうなることは分かっていただろうという声は桐岡にはずっと聞こえていた。そうした声を聞きつつ、そうした声の後(あと)を追うように男と言葉をやり取りしていただろう、おまえは、という別の声も耳にしていた気がする。
帰ろうと桐岡は思った。とりあえず、最初に男に声をかけた木の所に足が向かうのは分かっていた。あそこまで迷わず行けるかどうか・・・。
すれ違ったり、追い越したりする男たちに、一人二人ふっと思いが移ったりしなかった訳(わけ)でもなかったが、あの男に寄せたものとは到底比べられなかった。歩いていれば、歩き続ければ、忘れられるさ・・・。風が耳元を吹き抜けるように、そうした言葉が自身の内を吹き抜けるまで歩けばいいことだった。
「そんなに欲しかったか・・・。おまえは俺の尻(けつ)の中を舐められるなら、何でもするという眼をしていたな。今日、初めて見た時から・・・」男の声が、桐岡の内と外を、二度、三度と流れた。
さっきの木が生えていた。どこか違う木のようにも思えたものの、他(ほか)に思い当たる木は見当たらなかった。何日も前の出来事のようにも感じられた。立ち続ければ、「なんだ、ここにいたのか・・・」と、あの男が現れそうに感じられるのかどうか、自分の中の声をとりあえず聞こうと考えた。木の下に立っていればいいことだった。他のことをするより今は楽だった。
木の幹に尻で寄り掛かったり、右手を付いたりした。何かが木の中に流れ込み、自身が少しだけ軽くなると感じることができるかもしれなかった。軽くなる訳(わけ)がないという声も、木の中にならほんのわずか流し込めるかもしれない・・・。束(つか)の間(ま)であれ自身を軽くすることが必要に感じられた。
「どこをうろついていたんだ。いつまでも待っている訳(わけ)ではないからな・・・」
ここにいれば、そう言いながらあの男がふっと立ち現れるのではないかという思いにいつまでも寄りかかりそうな自身と、もう離れなければならなかった。いつだって自分を置き去りにするしかないさという声を残して、桐岡は去った。 (了)
(付記)
語り手(主人公)が、桐岡(きりおか)という同一の名前という事もあり、第1回、第2回との関わりが分かりにくい面がありそうですね。重なりつつも、一応単独の作品としてお読みいただけたらと思います。
(荻崎)
(2025.7.12)
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