(第9回作品) 男は言葉を残して去った
桐岡(きりおか)は歩いて行った。
まだ帰らなくてもよかった。これからどうするかを選べる時間があるのは、いつであれいいことだった。斜め右手に入る道を歩いた。細めの道だった。腰を下ろせる、大きめの木の台がいくつか置かれていた。様々な樹木が何本か集まっていた。
「まだやりたいのか・・・」台に腰を下ろしていた男が、独り言めいて、言葉を投げた。高齢だが、八十代の桐岡より、一回り、二回り若く見えた。どちらかといえば小柄だった。
「今日は何人と遊んだのかな・・・」と、桐岡は返した。
「一人だけさ、昼前に・・・」男は短く言った。
「それならまだ三、四人はやれるね・・・」桐岡は男に二、三歩近づいて言った。
「一人で充分だ。おまえなら三、四人分になりそうだ・・・」そう言うと、男は座ったまま両足をぐいと開いた。
桐岡は真っ直ぐ男の腰のあたりに近づき、男のズボンの前を開くと、のけ反りかけている男根を深々と口中に収めた。
「俺の言うことなら何でもする、と一目で分かった・・・。もしかすると、昔、会ったことがあるか・・・」
「会ったような気もする、初めてのような気もする・・・」男根を更にじわじわ喉元(のどもと)へ届かせながら、言葉の輪郭は蕩(とろ)けていたものの、桐岡は言った。
「上も下も全部脱がせろ・・・おまえもそうしろ・・・」と男は付け加えた。何百、何千の男たちと交合を繰り返し、似たり寄ったりの言葉に、飽きることなく、相手によるそのつどの細やかな差異も加わり、桐岡はそのたびに煽(あお)られた。
桐岡は男の衣類を全部脱ぎ取り、傍(かたわ)らの台に置くと、自身のものもその隣りの台に置き、向こう向きで台に座りぐいと突き出されていた男の尻の芯に、濡れた紙めいてぴたっと吸い付いた。
「何年か何十年か前・・・これとそっくり同じ恰好(かっこう)で・・・おまえに尻(けつ)の穴を奥の奥まで舐められた・・・思い出した・・・それとも別の男だったか・・・」男は、辺りを吹き抜ける風に助けられるふうに、言葉を切れ切れに流した。
「その男は俺だったか・・・他(ほか)の男だったか・・・同じ恰好で俺ともやったし・・・他(ほか)の奴(やつ)ともやった・・・」
隙間(すきま)がないくらい舌は張り付いていたものの、桐岡の言葉は二人にどうにか聞き取れた。男の尻の内側の肉の、深度によって細やかに異なる旨(うま)みと軟(やわ)らかさを、桐岡の切れ切れの言葉の音質がそのまま精確に伝えていた。
「まず間違いなく、おまえだったな・・・この舐めは他(ほか)の奴(やつ)では無理だ・・・。また、使うぞ。ここでもいいし、別の所でもいい・・・」ここではない、どこか遠くからのように、男の声が流れた。
二人連れの男たちが、直ぐ脇を通り抜けて行った。「奥の奥まで、べろべろ舐められている」「あの舌なら、いつもそばに置いておきたくなるな。いつでも使えるように、俺たちも・・・」男たちの声は風に吹き消されることなく届いた。
「よし、尺八」男は軀(からだ)の向きを変え、両足を桐岡の両の肩に置いた。
桐岡が尺八を始めると、「この味も他の男たちにはまず出せないな。酷(こく)が何倍も濃い・・・」という男の言葉が、桐岡の口と舌の動きをしっとりなぞりながら流れた。
しばらく二人の間から言葉が絶えた。やや強めの風が、二人の耳元を通り抜けた。近くに生(は)える植物の揺れる音が伝わってきた。
「よし、今日はここまでだ。また、使う。ここでもいいし、この先にある公園の四阿(あずまや)でもいい・・・」
男はそう言い残し、去っていった。
陽(ひ)が陰り始めていた。風もやや強くなったようだった。桐岡は男が去っていったのとは反対の方向に歩いて行った。男が去り際に口にした、公園や四阿の記憶が薄っすらあるようにも、まるきりないようにも思えた。
どこでかはともかく、いつかまた、あの男に会うかもしれない。会わなくても、仕方ないことだった。そうやって、到底数えきれない数の男たちと交合したり、しなかったりを繰り返してここまで生き延びてきた。八十年を越えてそうやってきた。寿命さえあれば、九十、百と、間違いなく、この先も同じことを繰り返して生きていくだろう・・・。
この身が、同じ性の男の生身(なまみ)を心底(しんそこ)欲しがっていると、自身の性の指向を最初に受け止めた、恐らく七、八歳の幼い時分から、八十を越えた今の歳まで、我が身が欲しがる顔と肌身の男を求めて、それだけを欲しがって、ここまで生きてきた。この世に、それ以外のものがある訳(わけ)もなかった。年をとればとるほど、そう思った。何千回、何万回、切りもなく考えた同じことを、また桐岡は思った。
また、同じことを考えている、おまえには他に考えることがないのか、歩きながら桐岡は自身を茶化した。茶化した回数にも、切りがなかった。
風は吹き募(つの)るというほどではなかった。陽はまだ落ちてはいなかった。今日だけでも、まだ、一人、二人、これはという男の生身(なまみ)が待っていそうな気がした。
おまえには、匙(さじ)を投げた。百十歳になってもそうしていろ、という声が届いた・・・。(了)
(付記)
年が改まり、今年(2026年)、最初の回になります。
年は改まったのに、中味は改まらないな、の声は甘受することにします・・・。
最後に述懐(じゅっかい)めいたものも載せました。
お読みいただき、感想などお寄せいただけたら幸いです。
(2026.1.6)
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