荻崎正広短編小説集 『果ての、始まりへ』

(第10回作品)  茶色と灰色の家

 桐岡(きりおか)はまた歩いて行った。これというほどの疲れはなかった。いつもと同じようにも、心なし違うように思うのも、いつものことだった。どっちの思いにも相応に味わいがあった。
「よく遊んだ・・・そう顔に書いてある・・・」
すれ違った、八十代の桐岡ほどではないが相当高齢に見える男が、桐岡と束(つか)の間(ま)視線を合わせてそう言うと、立ち止まるでもなく去っていった。初めて見るようにも、どこかで一度は会ったことのある男のようにも思えた。 
 今日はまだこれから、二、三人と遊びそうな気がした。現にどうなるかはともかく、歩いている最中は尚(なお)のこと、そう思うのはいつものことだった。風が少し強まり、やや寒くなった。外より、家の中で交合するのに適しているな、と思いながら桐岡はさっきまでとは別の道を歩いて行った。
 右手に茶色と灰色がほぼ同じ程合いの家が建っていた。一階のガラス窓の向こうに男が立っていた。眼が合う少し前から、桐岡を見ていたようだった。顔がもうひとつ分かりにくかったものの、眼が合っても男の表情は動かなかった。窓が開いた。
「風が出て、冷えてきた。無理するな、入って休んでいけ・・・」
男は表情を変えることはなかったが、風に吹き流されないように声を桐岡に届けた。桐岡は改めて立ち止まり、男の顔を真っすぐ眼に止めた。見覚えがあるとは思わなかったが、ふっと引き止め引き入れる深さが伝わってくる顔立ちだった。五十代くらいに見えた。
「入口は空いている」男はそう言い窓際から離れた。庭を通り桐岡が入ると、玄関口に男の姿はなかった。「右手の部屋だ」と男の声がした。その部屋のドアが少し開いていた。
桐岡が入ると、背もたれのある椅子に向こう向きで男が全裸で腰を下ろし、尻を小気味よく突き出していた。顔はぐいと上げていた。桐岡が予測した恰好(かっこう)に近かった。部屋の中は暖かかった。桐岡が想定した以上に、男の尻は締まって量感に富み、両のたぶがぐいと張り出していた。しかも、そうした尻全体がしっとり和(やわ)らいでいた。いくら長く生きても、そう楽(らく)には有り付けない尻のひとつだった。
 桐岡は言葉を発することなく近づくと、両手を添えて開いたその芯(しん)にぴたりと吸い付くや、逸(はや)る舌先を、奥の更にもう一つ奥へとじわじわ潜(もぐ)らせた。戸外(こがい)でより、部屋の中で時間をかけてじっくり味わえば味わうほど、芯(しん)から旨味(うまみ)が止めどもなく滲(にじ)み出てくる尻だった。濃(こま)やかな、どこか絹(きぬ)の織物にも似た風合(ふうあい)の中に、時折、しっとりとした淡さが加わりながら、深みへ更にもう一つ深みへと桐岡の一切(いっさい)を誘い込んだ。
「これだけの舌はめったに手に入らない。長く生きている間、舌を無駄には使ってこなかったな。俺の専用の舌にしてもいい。今日と同じ曜日の同じ時間に来れば、何度でもじっくり使ってやる・・・」
 男の言葉は、この場にはいない他(ほか)の遠くの誰かに向かって言っているようにも、独り言めいても聞こえた。男の言葉の味わいは、男の尻の中味とぴたり同じだった。
 これほど奥深い旨味(うまみ)と風味を湛(たた)えた尻は、桐岡にとっても、いつどこで出合えたか、そうすぐには思い当たらなかった。自身の年齢も含め、これから、そうそう何度も待ち受けているとも思えなかった。

 桐岡はまた歩いていた。帰り際に、男は、桐岡が八十を越えた高齢だということも踏(ふ)まえ、道のことも含め何度かていねいに伝えた。ただ、歩いている最中は、道は覚えられそうに思えたものの、いつもそうだったが、後(のち)になるほど、桐岡には自信が揺らいだ。それどころか、ここはどこなのか、どの道を歩けばどこに出るのか、分からなくなることもそう珍(めずら)しくはなかった。若い頃から、その点はさほど変わらなかった。 
 日は落ちたようだった。寒さはさほど覚えなかった。潮時(しおどき)だろう、今日はこれで終わりにしようかなと考えた。ただ、明るくても暗くても、暖かくても寒くても、潮時だと考えながらいつも歩いていた気もする。
「何を考えているのかな・・・」不意に声がかかった。不意ではなかった気もした。かけられる少し前に、そんな類(たぐい)の言葉をかけられそうな気もした。言葉をかけた男は、一時(いっとき)立ち止まり、桐岡の顔にじっと眼を注いでから、それ以上言葉を発することなく、桐岡と反対の方向に歩いて行った。見た目より若かった気もした。一時(いっとき)、後を追おうとも考えたが、その考えはさほど長くは続かなかった。長くは続かないだろうことは、初めから分かっていた気もした。
 桐岡はまた歩いて行った。疲れを感じないわけではなかったが、今日のような日ならもっと歩いてもよかった。それでいて、「今日のような日」が現にどういう日なのか、取り立てて考えるでもなかった。(了)

(付記)
前回から2か月ほど間(ま)が空きました。
連載を始めてから10回目という区切り目の回になります。
第1回目からは、9か月ほど経っています。
区切り目の回だということで、それなりに思い巡らしたのですが、その割には短めで、中味も私(わたし)的には淡々としたものになったようです。
それでも、これはこれで一つの区切り目かな、と自身は考えています。
もうしばらく続けようかなと思います。
お読みいただけたら幸いです。
(2026.3.7)









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